20世紀少年たちへ
ジョブス師がなくなった。
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このムービーはとても良い。
人がコンピューターを使うと言うことは、自転車を使用する人間に似ている。
つまりは正しい機械を正しく使うと人は飛躍的に進歩する。
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ことあるごとに店頭で彼がたぶん考えていそうなことを
僕なりの言葉に置き換えてお客さんと話したことが、色々と思い返される。(僕は決して信者でもなく、類いの本は読んだことは無い。)
瞑想やヒッピー、カウンターカルチャーなんてもう昔の話だよ
なんて思ってしまっていた日本のおとな達。
自分たちが勝手に祭り上げて流行にしてしまっていたおとな達。
”おとな達” よさようなら。
そんな気持ちに確実になった人達も多くいるのではないだろうか。
僕は完全にその一人ではあるのだが。
(同じ空気感が彼女に流れているのでお借りしました。)
浦沢直樹先生の”20世紀少年”という漫画があります。
映画にもなったのだがあまり評判については語られていなかった気がする。
じっくりと見てみたり、読んでみたりすると結構本質が面白い。
人は躍起になって常に ”犯人” を探そうとする。
(これは読んでいる読者も一緒に探そうとする。)
しかしどんどんと話が迷走していくように見せかけて
異なったテーゼを表現しはじめる。
それは文明の定義であったり、人類の愚かさであったり、自然の豊かさ、
最後には ”決別” をすることが大事なのだと言う。
そしてむろん犯人などはいない。
皆が ”犯人” であり時代の共犯者なのである。
其処からどう決別をつけ、新しい概念、
むしろ新しい人(さとちゃん借りるね言葉。)に
それは ”21世紀少年” になると言うことなのかもしれないし、
どうやって ”決別” をするかと言う ”行動” なのかも知れない。
それは単に"20世紀"やその近辺に生まれた人に向けての言葉になって
しまうことが、とても新しくないのだが、きっと古くからの著名人たちは常に同じ思想域の中で行動し思考をしていたのだとも思う。
それは時に表しやすい言葉となって生まれ流行となって、忘れられていくのかもしれない。
どんどんと季節は流れて、日進月歩のように進化していくであろう
文明の一番奥底にある物は、何時の時代も決して変わっていない。
僕は決して "おとな達" になんかならない。
僕は一生自転車で遊び続けてやるって再確認した今週末の感情。
kyutai